灰燼に記す

アイマスPの雑記。不定期更新

『好き?好き?大好き!』の読書感想文と全然関係ない話

 

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表紙の子、かわいいね......

NEEDY GIRL OVERDOSEの下敷きになったもののひとつ、らしい。本編中にも間接的に登場しますね

 

        ⏳Now Reading......⌛️

 

わ、わかんないっぴ......

作者が精神科医だから、多分、精神疾患の人間と関わった結果として生まれた作品なんだろう。そして、そういう人の生態に、そうでない人との対比に、何か光るものを見出したんだろうなとは思う。あとがき読んでも、旧来の精神医学とか普通の人を悪として、患者を純粋で善なるものと考えてたんじゃないか〜って批評が紹介されてたし。

にしたって、わからない。わからないのが正解であるようにも思う。真意がある、嘘をついている、ペルソナを使い分ける。もっと言えば、相手の話を聞く、自分の話が分かる......そういう複雑なすべてを失って、なお、今この瞬間に感じたこと言いたいことを出力した結果。純粋な衝動の結晶。それを美しい鉱物だと思うか、尿路結石の親戚だと思うか......この詩集のわからなさと価値っていうのは、そういう話じゃないかなと感じた。

 

しかし、果たして純粋は価値たりうるだろうか。

出典知らないけど、ピカソは「ラファエルのように描くには4年かかったが、子供のように描くのには一生かかった」みたいなことを言ったらしい。子供のような絵とは何か、というのもきっと盛んに議論されるところではあるんだろうけど、個人的には、その純粋性が核たる要素だと思う。生活の為でも名声の為でもなく、楽しいから描く。いかなる技法も学ばず、ただがむしゃらに筆を運ぶ。もしかすると、何かを描くものだという意識すら無いかもしれない。そして、その結果として本質が描き出される......というのが、純粋信仰の実態であろう。

幼少期の私はとにかく絵を描くのが好きで、お絵かき帳にクレヨンで何枚も何枚も絵を描いた。年少と年中の2年間で4冊は使っていたと思う。絵は描けても字は到底書けなかったので、幼稚園の先生にタイトルを書いてもらっていた。その中でも未だに覚えている『これがこれにおいついた』は、今の自分には思いつけないなぁと感心する。

こう思い出すと私もまたピカソが憧れた芸術家であったのだなぁと感じることもできるが、冷静に批評すれば、3歳の折でさえその作品は"常識"に囚われている。「絵には題名をつける」「絵は一瞬を切り取ったものである」「絵は描くものである」

それらを私と常識との偶然の一致と捉えることもできるが、妥当なのは、3歳児にも絵に関する常識があると考えることだろう。この場合、子供の絵とは純粋なものだろうか。価値あるものだろうか。いたずらに稚拙なだけではなかろうか。それとも、斯様な常識の浸潤でさえ純粋を飾り、本質を彫り出す刃であろうか。

 

私は同じことが他の創作に言えると思う。

私は常々、より狂いたいと思っている。壮絶な片思いが破れ、その他すべての人間関係も上手くいかず、簡単な仕事もできず、精神的負荷が限界を遥かに超えた頃。幻聴に苛まれながら、授業と手首を交互に切っていた2019年頃。Zink Whiteを考え出したし、このブログが生まれて猛烈な勢いで更新していた。あの頃はいくらでも書けたし、自分が書いたものを読むと今でも面白い。だから、また狂えば面白いものが書けると思っている。

友人の友人に短歌が趣味の奴がいるらしいが、彼は同時にODの常習者でもあり、この前は暴走しちゃって近所の屋根に登っていたらしい。

一般にも、文学は狂っていた方が良いとされている気がする。数年前にはストロングゼロ文学がウケていた。酩酊状態も、一種の狂気には違いない。

しかし、狂気によって全神経が創作に向かったとて、剥き出しの感情が叩きつけられたとて、それは先述の、幼児の絵と変わらないのではなかろうか。それは狂気を持つのではなく、本質により近いものでもなく、単に技巧や常識を中途半端に欠落しただけではないか。そういう真っ直ぐで歪なものが心に響くことを否定する気はない。しかし、真に必要なのは、より卓越した技巧なり知識なりで、それら自身を葬り去ることであるはずだ。それを狂気で、酩酊で、未熟で、補おうとしてはならない。ズルをするな。画面を意図で埋め尽くせ。本質は森羅万象に宿る、引き算して最後に残るものではなく、てめえで最初に作るものだ。
これを支える論理は無い。何かを持たないことで正解しようという魂胆も、みんながみんなが何か光るものを持っているという楽観も、とにかく気に食わないから言葉を弄しているだけだ。

 

改めて『好き?好き?大好き?』に向き合う。これは別に作者が狂っていたわけではなく、狂ってしまった人々を見続けた精神科医が芸術性を見出して模倣したわけなのだから、見事と言う他ない。

『どうにもしかたがない』なんて、ちょっと凄すぎる。この延々と続く取り留めのない、会話ですらない言葉の応酬。狂っていてもなお何かを伝え自己を表現したいのが人間であり、正気の人間にとってそういう原始的な衝動は忘れ去られたもので、形式ばった言葉以外を受け取ることができない。そうして、すれ違いが永遠に続いていく......冒頭に触れた旧来の精神医学への反発が「まだ続くのか」という辟易として我々の中に描き出される怪作だ。

 

旧来の精神医学が何を指すのかは不勉強ゆえ分からないが、作者が精神分析に傾倒していたのは確かである。帯にも「精神科医精神分析家」って書いてある。精神分析とはなんぞや、というのはWikipediaなりなんなりに譲るとして、

......と思ったが、かなり関係のない話が続いてしまったのでカット。精神分析ってはっきり言ってオカルトだと思うから全然好きじゃないんだけど、当時の世相みたいなものを理解する為には触れておいた方が良いのかなぁと思いました。あとフーコーとか。狂気と言えばフーコーという偏見だけがあります。

 

 

詩集のタイトルにもなっている『好き?好き?大好き?』も非常に良かった。あとがきで解説されてるように、昔からこれを下敷きに色々な作品が作られていて、その最先端にNEEDY GIRL OVERDOSEが居るらしい。

収録されている詩のほとんどは『どうにもしかたがない』を筆頭に、わけがわからないか、過激か、その両方であるものが多い。そんな中にあって、可愛らしくてわかりやすい。形式こそ似ていても、同じ人間の作品に思えないほどの違和感を放っているが、それはこの一遍の詩がオタクカルチャーに絶大な影響を与えたということなのだろうか。果てしのない承認を求める厄介な精神異常者を、オタクカルチャーが可愛らしい女の子に変えてしまって、他のあらゆる狂気から切り離してしまったがゆえなのだろうか。

狂気と括れば同じものが、可愛らしくも、過激にも、意味不明にも見える。愛すべきものにも、関わり難いものにも、触れるべきでないものにも見える。この、偶然が持つ暴力と、狂気ゆえの苦しみの不可視化。これらを自覚できたのは良いことだったかもしれない。

 

先ほどから狂気、狂気、と便利に使っているが、1976年と現代とでは、狂気を取り巻く環境は全く異なっている。その指し示す範囲すら違っていても不思議ではない。

多分、当時は発達障害なんて概念はない。精神外科が衰退しきって、向精神薬が開発され始めたけど、なんか精神分析が幅を利かしてる時代。インターネットを介して容易に狂気に触れたり、同じ狂気を持つものどうしが集まったりすることは有り得ない時代。

であるならば、現代の狂気とは、1976年の狂気と全く異なるものであるはずだ。そこに見出せる本質も、当時とは全く異なっているに違いない。あるいは、狂気は容易に模倣されるようになり、そこに本質を求めるのは難しくなったかも知れない。逆に言えば、精神科医でなくとも狂気が収集できるのだから、誰もがR.D.レインぶれるのではなかろうか。

お前たちも本当の狂気と模倣されたしょうもない狂気を見境なく食い散らかして、本質を見出し、そして言葉を紡ぎなさい。狂人同士で徒党を組んで、未だかつてない狂気でもって作品を生み出しなさい。俺はそれを見て、またうだうだと語りたい。

 

ニディガ補正で100割増しだろうけど、詩集って面白いし、歌集とか画集とか創作物をとにかく沢山摂取できる本はばんばか買っても良いな.....