お品書き
誕生日なので生と死の話をする
これが投稿される頃には、私は25歳になっています。長めに見積もって、人生の1/4が終わったことになる。悲しいねぇ......
4回くらい葬式に参加してるのに、いまだに死を他人事だと思ってるし、可能なら回避したいと思ってる。並行して死にたいとも思っている。
今は不摂生を極める生活をしているから、突然心臓が止まって死ぬみたいなのもワンチャンあるかなと思う。そういうのはギリ許す。タイムラグがあって、抗いがたい恐怖と苦痛がある、そういう死が本当に嫌だ。飛び降り、飛び込み、交通事故。獣に襲われるのもかなり嫌。いちばん最悪なのは遭難だろう。特に海。中学のとき、顔も名前も知らない下級生が台風なのに海見に行って、2人くらい帰って来なかった事件があった。自分だったらと思うと身の毛がよだつ。
こう忌死の念を振り返ってみると、俺には自他の境界が無いなと思わされる。飛び降りるのも、飛び込むのも、轢かれるのも、食われるのも、溺れるのも、飢えるのも、俺ではなかった。なのに、まるで自分の身に起きることかのように捉えて、怯えている。滑稽だ。真に恐怖すべきは、就活とか復学とか、生活習慣が崩壊していることとか、この俺に差し迫った現実だろうに。
俺が死ぬのも嫌だが、他人が死ぬのも嫌だ。他人と書くと違う気もするが、例えば親が死んだら、長男たる俺は喪主をさせられるかもしれない。本当に最悪だ。
どうして俺が信仰している訳でもない宗教に阿り、金を払い、儀式に参列しなければならないのか。長々と実体験に基づく怨嗟の声をあげても良かったが、俺の人間性が疑われそうなのでやめておくことにした。
どうしても行きたくなかったら、葬式って行かなくていいのかな。当時の俺は精神的に追い込まれ過ぎて、大学はもちろん病院にも行けず、マトモに眠れず、身の回りのことは当然できず、酒とウイポでギリギリ生存してる状況だった。それを伝えれば「あとで線香だけでもあげに来てね」くらいにはソフトな要求になったんだろうか。行きたくねえんだけどな
「無理は嘘つきの言葉なんです」の理論で、本当は無理だったのに行っちゃうから良くなかったのかもしれない。頑張るのは、頑張れるやつだけでいい。『休む勇気』って本書こうかな。アドラー昔流行ったよね〜
知人が死ぬのも、かなり嫌だ。結局のところ人は死んだら生き返らないから、誰が死んでどれだけ悲しんだとしても、いつかはその不在に適応してしまう気がする。俺はそれが悲しい。Dr.ヒルルクの言うところの死は、死よりも悲しい。一方、適応できなかった場合、俺は更に狂うか、後を追うかだ。俺は少しでも幸せでいたい。最悪、後は追っても良い。
俺が死んで周囲の人がどうなるかは、あまり興味が湧かない。どうせ分からないから。
一度も働くことなく、学部を卒業することもなく、25歳になってしまった俺の未来はどっちだ?
休学ニートの何もない日々
誕生日を迎えると言うのに、何のイベントもない。地元の友人はみな忙しいようだ。そりゃそうだよ、25歳なんだもん。その割には卒論書いてるやつとバイトしてるやついるけど。
実家には俺の部屋がないので、普段使わない和室を与えられて、そこで生活している。かつての俺の部屋は妹に明け渡された。
だいたい8時くらいに朝食を食べに部屋を出て、食べ終わったら部屋に戻る。ゲームをするか、ネットを見る。本は殆ど読まない。いいかげん新しいのを買いたいと思って1ヶ月経ってしまった......
13時くらいに昼食を食べに部屋を出て、食べ終わったら部屋に戻る。もっぱら、この前か後に睡眠をとっている。
17時くらいに、風呂掃除を命ぜられる。これが実家における俺の唯一の仕事だ。その流れで、18時くらいに夕飯。食べ終わったら部屋に戻る。ここで寝ることもある。
夜も、やることは変わらない。深夜、家族が寝静まってから家を出て、少し走る。帰りにコンビニに寄って、何かを食べる。家に着いたらオタクと電話するか、出なかったらゲーム・ネット。
電話も4時には終わる。そうしたらfgoのログインを済ませる。うだうだしてるうちに5時になって、ウマ娘にもログインする。そのうち家族が起きてくるので、朝飯まで息を潜める。
......以上が、実家における俺の生態。最後に遊びに出たのは8/18のミリアニ第1幕かな?そこから2週間以上これだ。狂いそうだし、あと小遣い入ったし、いいかげん1人で出かけるやつやるか。
ボーイ・ミーツ・オーバードーズ
俺はNEEDY GIRL OVERDOSEがだ〜いすき!
↑あめちゃん。俺が今まで出会ったキャラクターの中でも5本の指に入る
そもそもドット絵が割と好きだし、あめちゃんは一撃で惹かれる強烈なキャラクターしてるし、色々とやっちゃいけない事ができて嬉しい
Switchのスクショ機能さえ死んでいなければ記事を量産できたのに......ヨヨヨ......
俺も精神的に追い詰められてた時期あったけど、オーバードーズ(以下OD)はしなかったなぁ。変に冷静というか、怖がりだから、体験談とかデメリットとか調べて、これを上回る利は無かろうと思ってた。カフェイン錠ODしたやつのが特に強烈だったな......自分の知性が失われるのが怖くて、時計の意味が分かることを確認し続けてた〜とか書いてあった。怖すぎる。
いうても俺も、全てが限界の時は頭痛薬を倍プッシュして無理矢理寝てた。眠れないのは本当に一大事だから、軽率に病院に行こう!
というメッセージはさておき、最近、友人がODして(何やってんの?) その体験談を話してくれた。咳止め薬を大量摂取してたみたいだから、マジのヤツだ。多分ね。
俺もこの世ならざる感覚、欲しいね。残念なことに酒はもう浴びるように飲んでるし、タバコは喘息持ちだから吸ったら大変なことになるし、それ以外のものは法で禁じられてる。窮屈だぜ、まったく......セブンの大盛りペペロンチーノは神域に至るポテンシャルがあったけど、地域差なのかなんなのか前と味変わっちゃってただの麺類に成り果てた。monsterは流石に飽きてきたな。
それ以外の超日常的な感覚といえば......疲労とか?極度の疲労は一周回って人をハイにする。走ってるとそれを感じなくはないけど、疲労より先に「息が苦しい」か「脚が痛い」が来る。それもまた疲労の一形態なんだろうけど、そうじゃないねん。文化祭前日に遅くまで準備した時の感じの疲労が欲しい。
何日か後、8千歩くらい歩いて本を買って来た。家に帰ってから、汗でびしょびしょの服を着替えて、キンキンに冷えた麦茶を飲み、エアコンの効いた部屋に寝転んで、本を読む。この疲労感と期待感とが入り混じった感覚は間違いなくそう俺の求めていたもののひとつだと思った。若者は、街へ出て書を買え。